ミシンの歴史
ミシンて、どうして
ミシンの歴史
●ミシンの歴史
アメリカ編
ミシンの伝来

<ミシンの発明を製品化>-アメリカ偏
発明の元祖が、ヨーロッパであるのに対して、アメリカは、それを商業ベースに乗せ、製品化していった。まさに、「フロンティアスピリット!」「アメリカンドリーム」を演じたアメリカの主役は、「アイザック・メリット・シンガー」(初代シンガー社長)。この人物を抜きにして、ミシンを語ることは、できない。でも、登場は、少し後でんねん。ま、ゆっくり読んでチョ。


<ジョン・ノールズ>1819年
バーモント州、モンクトンの機械工である「ジョン・ノールズ」は、(バックステッチを形作る)ハンドソーイングの手法と同じような原理のミシンを発明したという記事が、当時のマガジンに掲載された。但し、具体的な内容が不明で、実用化されていない。


<ウォルター・ハント>1832年
ウォルター・ハント

天才的理論派発明家、「ウォルター・ハント」は、2本糸によるロックステッチを発明したが、製品化にするつもりは無く、他の人へ、特許出願権を譲渡してしまった。あ、いや〜、もったいない。彼は、ミシン以外に多くの発明を行ったという。ミシンという機構にまだ魅力を感じなかったのかな。


<ジョン・ジエー・グリーノフ>1842年(アメリカ最初の特許)
アメリカ最古のミシンに関する特許は、この「ジョン・ジエー・グリーノフ」が考案した。皮革等の堅い素材用に設計され、針に先行して、穴を開ける突き切りを併用する方式であるが、実用化は、されなかった。


<ベンジャミン・W・ビーン>(アメリカで2番目の特許)
「ベンジャミン・W・ビーン」の考案には布送りに独特な方式があった。後年になって、部分的にミシンに取り入れられたが、これまた、実用化されなかった。


<ジョージ・コーリス>1843年/3月(アメリカで3番目の特許)
「ジョージ・コーリス」は、ニューヨークの雑貨商。発明家と実業家を兼ね備えた彼は、皮を縫う機械を考案した「グリーノフ」の発明を更に改良して、その完成度は、実用化の域まで達していた。彼は、発明の翌年、1844年、ミシンの製造を中止し、蒸気機関の発明に没頭する。ミシンを研究することで、蒸気機関の改良を思いついたという。後年、コーリス蒸気機関として、大きな成功を収めて、世界的名声を得た。


<ジェームス・ロジャース>1844年(アメリカで4番目の特許)
「ジェームス・ロジャース」は、「ベンジャミン・W・ビーン」の考案に改良を提案したしただけ。でんねん。


<エリアス・ハウ>1846年(アメリカで5番目の特許/4750号)
エリアス・ハウ
「ハウ」が考案したミシン/1846年
まだ、現在のミシンとは形が異なる
1872年/この時代には、ミシンらしく

「エリアス・ハウ」は、1819年、マサチューセッツ州スペンサーで、農場主の息子として生まれた。彼は、兄弟も多く、1837年頃、大変な不作が続き、やむなくボストンへ出て機械工として働き始めたのが、18歳。彼は、工場へ来た客が、「ミシンという新しい機械を何人もの人が、研究開発したけど、未だに一つも成功していない。これが、完成されれば、大変なビジネスが出来る。」と話したのを、傍らで偶然聞いてしまった「エリアス・ハウ」。偶然聞いてしまったのが、1843年。彼は、工場を休んで、2年という歳月をかけて、1845年、アメリカで、5番目の特許を獲得する。この時、羊毛の紳士服2着を縫製見本として提出しているという。
やっぱり、耳は、ダンボにしとかにゃ、あかんね。壁に耳有りやね。写真見てみぃー、賢そうな顔してまんがな。
彼の考案は、今日の本縫いミシンの源流となった発明である。
特に、ボビンケース(シャトル)とボビンの考案、針と糸とのタイミングの設計理念は、従来に無い、抜群の完成度だったという。
ところが、そう、ところが、である。特許を取得したものの、事業化は、困難を極め、彼は失意のうちにイギリスへ渡り、ウイリアム・トーマス氏に250ポンド(約1250ドル)で、英国での特許権を譲渡してしまう。世の中、うまいこといかんもんやネ。
3年間イギリスで、生活した後、アメリカへ1849年に帰国すると、状況は、一変。
アメリカ各地で、彼の特許を用いたミシンが無断で製造され始めていた。あ、いや、こんなの有りかのォ。
世間は、やはり、彼の考案が、いかに凄いか、よう知っとったというこっちゃ。
「エリアス・ハウ」は、自分の発明を守る為に、特許訴訟による、法廷闘争を開始する。
やるじゃんね。

とりあえず、ここまで、読んだら、お茶でも飲んでください。疲れたやろぉ。
あで?、まだ、「シンガー」のおいちゃん、出て来まへんがな。
もう、ちと、読んでチョ。

「エリアス・ハウ」は、「シンガー」を相手取り、特許侵害で、訴訟をいくつも行う。
あ〜、やっと、「シンガー」のおいちゃん出てきたネ。
相手に不足はない。
1854年、訴訟が和解成立し、15,000.ドルを勝ち得た。
このころ15,000.ドルのドルって、そんなもん、15,000.ドルでっせ。(なんじゃ、それ)
(実際の訴訟では、シンガー製品の販売停止と、賠償金25,000.ドルを要求していた。)
ここで、シンガーのおいちゃんは、和解案を15,000.ドルに減額し、(→ようは、うまく値切っただわなぁ)
なんと、製造販売権を取得するのである。
この、製造販売権を取得できたことが、後の「シンガー」を躍進させた。


<シャーバン・C・プロジェット と協力者ジョン・A・レローの共同特許1849年
彼らは、全回転式ミシンを最初に発明した。しかし、装置に欠点があり、糸がねじれてしまうために、実用段階で、不評となった。
実は、「オーソン・フエルプス」がの特許を買い取った。買い取ったものの、うまくいかない。
「オーソン・フエルプス」は、ここで、「シンガー」に改良を依頼した。
「シンガー」が、初めてミシンとめぐり合うこととなった。
人生、出会いが、大事やね。


<アイザック・シンガー>1850年
アイザック・メリット・シンガー
シンガー1号機のミシン/1850年
シャトルボビンが中に内臓された
ニューヨーク州ピッツタウンの出身。当初、親友「ジョージ・ジーヴァー」と木版自動彫刻機の開発を行った。
1850年夏、その機械を売りこむためにボストンの「オーソン・フェルプス」氏の工場に立ち寄った。
この時、「シンガー」のおいちゃん、39歳でんねん。
その時、「オーソン・フェルプス」氏より
「自らが、パテントを所有しているミシンに欠点があり、これを改良して、世に出せば、必ず大きな市場を獲得できるということ」
「シンガー」と「ジーヴァー」の2人に熱心に話した。
実は、2人が作った木版自動彫刻機は、不評で、落胆している最中であった。
よっしゃ、やったろやんけ。(と大阪弁で話した訳ではないけど)、と奮起したのであった。
2人は、この未知のマシンの改良に全力を上げて取り組む決意をして、
約2ヶ月間、この開発に没頭した。ほれ、これ読んどるあんた、そう、あんた、ボッとしとったら、あかんで。没頭せな。
努力の結果、1850年9月、シンガー1号機が、遂に完成した。(現在、大英博物館に所蔵されている)
翌年、1851年、「シンガー」のおいちゃんは、独自の特許を取得し、
積極的なセールス活動を開始して、「シンガー」ブランドで、売り始めた。
これまた、ところが、そうは問屋はおろしまへんねん。そう、さっきの話でんがな。
「エリアス」は、「シンガー」を相手取り、特許侵害で、訴訟を開始したのである。
ここで、名弁護士「エドワード・クラーク」(後のシンガー副社長)が、登場。
「エドワード・クラーク」は、次々と、法廷での訴訟をこなしてゆく。
そして、1854年、訴訟が和解成立し、15,000.ドルを「エリアス」に支払い、代わりに、製造販売権を取得する。
名弁護士「エドワード・クラーク」は、副社長となり、その当時、高価なミシンを如何に売りさばくかを考え、
世界ではじめて、割賦販売方式を発案し、「シンガー」ミシンの拡販に多大な貢献をした。


<アレン・ベンジャミン・ウィルソン>1851年

<左写真の拡大図>
ウイラー&ウイルソン社製
アレン・ベンジャミン・ウィルソン
このヒゲ、なんとかならんのかね?
カレーライスどうやって食べるんかいのぉ。
1854年/足踏みミシンを既に形造っている(左写真)
押さえの方向から推測すると、
足踏みをする作業者から見ると、左から右へ縫製品が流れてゆく(右写真)

ニューヨーク州ウイレットの出身の「ウィルソン」、誠実・勤勉な人柄と技術者としての良心を終生貫いた。現代のミシン技術に綿密な関連を持つ優れた発明や改良を数多く造り上げた。上の写真を見ても、もう、産業機械をして使用しても良いスタイルになっている。
1851年、彼のパートナー「ナザニエル・ウイラー」の資金提供を受け、「ウイラー&ウィルソン社」を設立。
アメリカを代表するメーカーへと発展する。
「ウィルソン」の賢そうな顔を見てチョ。
でも、誠実勤勉な天才的発明者の彼にも、かなわぬものが、一つあった。
それは、「健康」である。
そう、「健康」は、お金で、買えないのである。
彼は、病弱であった為、会社設立後、引退し、療養生活を送る。
療養生活をしながらも、多くの優れた発明や改良を続けた。機械が好きやったんやね。
 <ウイルソンの主要な発明や改良>
 (1)往復でステッチを形成するシャトルの改良特許。
 (2)ロータリー・フックの改良特許
 (3)静止ボビンの発明特許
 (4)フォー・モーション・フィードの発明特許(送り金の基本動作)


<ジェームズ・E・ギブズ>1857年
ジェームズ・E・ギブズ
1871年製/ウイルコックス&ギブズ社製
これまた「ギブズ」も天才おいちゃんでんねん。彼は、バージニア州の農夫であった。
1855年、26歳の時にグローバー&ベーカー社製ミシンの木版画を偶然見ることになる。
しかし、その木製版画は、ミシンのベットの部分が、正確に描かれていなかった為に、
実物は2本糸を使用していたグローバーの製品を、彼は1本糸と勘違いしたまま、考案を繰り返した。
1856年に1本糸で縫うことができるミシン(チェーンステッチ)を発明してしまった。
彼は、「ジェームス・ウイルコックス」から資金援助を受け、「ウイルコックス&ギブズ社」を設立した。
チェーンステッチミシン(単環縫いミシン)のメーカーとして、世界的に有名なメーカーとなり、アメリカで上場企業にまでなった。


アメリカでは、当時、わかっているだけで、150社を超えるミシンの製造会社が、あった。(実際には200社以上あったと予想します。)
中でも、世界ではじめて、割賦販売方式を発案した「シンガー」社の拡販方式は、当時としては、絶大なる販売戦略となった。
高価なミシンを売るためには、割賦販売方式が、バッチ・グーなのである。
「シンガー」社は、その独自の販売方式と強力なマーケッティングによって、1900年代初頭、世界のミシン市場を制圧独占し、
他メーカーを淘汰してしまった。
家庭用ミシンの代名詞とまで言われた「シンガー」社は、現在の日本でも知らない人はいない。
当初、「シンガー」、「ウイルソン」、「グローバー」、「ギブズ」等の製品は、当初から職業用として使用されたことも多分にあった。
本来、「家内製手工業」の「縫い仕事」が、ミシンの登場で、工場体型へと発展してゆく時代の波へもうまく乗ろうとしたのである。
その後、ヨーロッパのメーカーも多数の会社が、ミシンを製造し始めたのである。
しかし、「シンガー」社だけが、経営と販売と開発の3本柱をしっかり築き上げ、世界に君臨する巨大ミシンメーカーへと発展する。
これは、「シンガー」の片腕と言われた名弁護士「エドワード・クラーク」(後のシンガー副社長で、2代目社長)の手腕が、そのノウハウを築いたと察する。
「シンガー」社は、1905年には、「ウイラー&ウィルソン社」を吸収合併したのを始め、他社の有効パテントを次々と買取り、その資本力を、工業用のミシン開発に注ぎこむ。そして、工業用ミシンでも、全ての分野を網羅し、特殊飾りミシンについては、からくり機械の粋を思わせる逸品が、世界を圧倒した。
現在、我々ミシン屋が、シンガーのミシンナンバーで、機種の話をしている部分も多数有ります。
現在販売されている押さえ、アタッチメントの原型や番号もシンガーのなごりを思わせるものも、多数あります。
「シンガー」なくして、ミシンの歴史は、語れないのであります。
「シンガー」社自体のその後の変貌も、また語れば、このページを生め尽くしても足らないくらいあるけど、また、おいおい、調べて載せますネ。
とりあえず、読んでるあんたも疲れたピョン。じゃあね。



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